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鳥屋城~村上ゆかりの城で武石の秋の田園風景を楽しむ~

  • kk
  • 2023年9月24日
  • 読了時間: 2分

更新日:2023年9月26日

とやじょう

標高:850.5m

所在地:上田市

登山口:鳥屋城跡駐車場

コースタイム:20分


本日は鳥屋城跡へ

駐車場はここから400mほど


鳥屋城跡 案内板

鳥屋城跡(案内板より)

 鳥屋城は、依田川谷が一旦くびれる地点の西方、標高850メートルの山頂に築かれた山城です。いつ誰が築いたかはよく分かりませんが、麓の鳥屋立(たて=館)に屋敷を構えた者がいたと思われます。

 武田信玄は、小県地方から北信地方進出をねらって、天文12年(1543)、鳥屋城の南約4.5キロメートルにある長窪城を攻め落とし、有力な根拠地にしました。天文22年(1553)4月、武田氏が埴科郡に侵攻すると、義清は本拠葛尾城を捨てて上杉謙信を頼り、その援助で領地を回復して塩田城に入り再興を図ろうとしました。しかし、信玄は直ちにこれを攻略するため、7月25日に甲府を出立しました。

 信玄の侵攻の様子を、家臣の駒井高白斎は『高白斎記』に次のように記しています。

 8月1日、長窪城に着陣、和田城を攻め、城主以下ことごとく打ち取った。3日、高鳥屋城へ登り見物(高鳥屋城は鳥屋城のこと、登ったのは鳥屋山砦と思われます)。4日、高鳥屋城の衆ことごとく打ち取られる。内村の館を攻め落とす。申刻(午後4時ごろ)勝利。5日、塩田城を攻撃。回りの城は戦わずして陥落。塩田城に武田の軍旗を立てた。

 鳥屋城は天文年中、村上方の武田に対する最前線の城として使用されていたことが分かります。

 鳥屋城は、南の尾根を二条の堀切で切断し、その先の尾根は両側を切岸(人口の崖)とし、北の尾根には堅固な堀切を四条設けています。西の尾根は、自然の岩塊を巧みに使った曲輪で固めていますが、ここが大手と思われます。本郭を腰廓がぐるりと巻き、東から侵攻した敵が半周しないと本郭の虎口(入口)に到れない防備は、この地域ではあまり見られないものです。

鳥屋城跡駐車場🅿着


ゲンノショウコ


ノコンギク


「鳥屋城跡↑」の案内板

ゲートをくぐって出発


「鳥屋城跡 あと630m」


「鳥屋城跡 あと540m」

ところどころに案内板が現れる


涸れ沢

なんとなく涼しい


「鳥屋城跡 あと480m」


「鳥屋城跡 あと270m」

現在使われていない🚻あり


「鳥屋城跡 あと260m」

さっきの案内板からまだ10m…


「鳥屋城跡 あと230m」


「鳥屋城跡」が現れたら


大きな案内板登場

「鳥屋城跡→ ここより170m」

信玄が見物したという鳥屋山砦は左に990m


このあたりは展望抜群

雲ひとつない秋の空

田んぼのグラデーションがきれいだ


トンボみっけ


「鳥屋城跡 あと110m」


「鳥屋城跡 あと65m」

ついに5m単位(笑)


石碑を過ぎたら


鳥屋城跡 山頂

標高:850.5 m


すてきな木がある


鳥屋城跡 鳥屋城縄張図

ここが木曽義仲の依田城という伝説も!?


2021年7月21日の依田城はコチラ

鳥屋城と周辺の伝説(案内板より)

明治14年に書かれた『鳥屋村誌』は、鳥屋城を「依田城址」として取り上げ、治承4年(1180)平家打倒の旗をあげた木曽義仲の「依田の城」は、鳥屋城であるとの里人の伝説があることを記しています。

 しかし、このような山嶺の狭い地に拠ることは疑わしく、おそらくは天文・永禄年間(1532~69)に、依田氏を名のる者が築城したのであろうと考察しています。

 また、明治27年に書かれた『武石沿革史』は、古老の話として、現在下武石の小路にある妙見寺は、文治年中(1185~89)に、武石郷の豪族嶽石(たけし)三郎胤盛(たねもり)が、鳥屋城の麓にお堂を創建し、大日如来と妙見尊を安置して法相宗の完光上人を帰依僧として祈願した寺がその後小沢根に移り、さらに現在地に移転したとの由緒を記しています。

 この嶽石三郎胤盛は、上武石の堀の内に館を構え、武石を開発した人物と考えられています。

「←根羽城跡 丸子城跡」に続く道


2021年11月6日の丸子城はコチラ


ここから景色を見よう


武石の秋の風景

田んぼのグラデーションが美しい


いざ下山


下山道

蓼科山がよく見える


2022年10月8日の蓼科山はコチラ


ゲート着 無事下山


下山後の温泉は雲渓荘

しっかりあったまった


葛尾城に続き村上氏ゆかりの鳥屋城

武石の秋の美しい田園風景を楽しんだ

里山あるきに感謝


2023年9月19日の葛尾城はコチラ

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