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武田・真田めぐり~松代周辺はゆかりの地の宝庫~

  • 3月31日
  • 読了時間: 14分

更新日:4月4日

コース:山本勘助の墓→広瀬の渡し→信州柴阿弥陀堂→寺(真田信之の墓)→川中島古戦場→諸角豊後守の墓→胴合橋→勘助宮→典厩寺(武田信繁の墓)→松代城(海津城)

本日のコースに登場する武田・真田の武将たち

・諸角虎定(もろずみとらさだ)1480?~1561

・山本勘助(やまもとかんすけ)1493(or1500)~1561

・武田信玄(たけだしんげん)1521~1573

・武田信繁(たけだのぶしげ)1525~1561

・高坂弾正(こうさかだんじょう)1527~1578

・上杉謙信(うえすぎけんしん)1530~1578

・真田信之(さなだのぶゆき)1566~1658

・真田信繁(さなだのぶしげ)1567(or1570)~1615

・鈴木右近(すずきうこん)1584~1658

・真田幸貫(さなだゆきつら)1791~1852


本日はこちらから。2026年3月26日の信濃毎日新聞に「山本勘助の墓が移転 開眼式」の記事があったので、寄ってみようということになりました。(Yahooニュースはコチラ。)
本日はこちらから。2026年3月26日の信濃毎日新聞に「山本勘助の墓が移転 開眼式」の記事があったので、寄ってみようということになりました。(Yahooニュースはコチラ。)
お墓にたどりつく前に気になる案内板を発見。「←広瀬の渡し:武田信玄が甲斐より海津城に入る時、海津城を出て八幡原に陣を構える際に渡った。また、江戸時代には全国から参詣に来た人々が信州柴阿弥陀堂を経て善光寺へ至る時渡った」とあります。行ってみましょう。
お墓にたどりつく前に気になる案内板を発見。「←広瀬の渡し:武田信玄が甲斐より海津城に入る時、海津城を出て八幡原に陣を構える際に渡った。また、江戸時代には全国から参詣に来た人々が信州柴阿弥陀堂を経て善光寺へ至る時渡った」とあります。行ってみましょう。
少し歩くと「広瀬の渡し」の案内板がありました。この辺りなのでしょうか。
少し歩くと「広瀬の渡し」の案内板がありました。この辺りなのでしょうか。
千曲川が流れています。千曲川を渡った先が八幡原、川中島古戦場ですね!
千曲川が流れています。千曲川を渡った先が八幡原、川中島古戦場ですね!
移転した山本勘助のお墓です。今回は台風19号災害に伴う堤防のかき上げ・拡幅のため、これまであった場所から南西へ7mほど移したそうです。目印になっていた杉やヒノキは伐採されたようです。お墓を管理している方にお会いできて説明を聞けました。
移転した山本勘助のお墓です。今回は台風19号災害に伴う堤防のかき上げ・拡幅のため、これまであった場所から南西へ7mほど移したそうです。目印になっていた杉やヒノキは伐採されたようです。お墓を管理している方にお会いできて説明を聞けました。
お墓の横には読み応えたっぷりの案内板がありました。案内によれば、信州柴阿弥陀堂は親鸞真筆の「十字名号」を本尊として、室町時代に吉池彦四郎重行によって開基。1561年の第四次川中島戦役の後、武田信玄は陣小屋を寄進・改築し、冑中の守護仏を奉安して両軍の戦死者の霊を祀り、それを聞いた上杉謙信も家臣を遣わして礼拝したそうです。信玄にも謙信にもゆかりのあるお堂なのですね。地域の人々から「お芝様」と親しまれ全国各地から多くの人が参詣に訪れたようです。山本勘助(道鬼)墓の説明には勘助の生涯が書かれていました。要約すると、勘助は三河国(愛知県)出身。26歳より諸国を巡り修業。44歳で武田信玄の軍師。上杉謙信の攻撃に備えるため海津城の構築も手がけた。1561年の川中島の激戦で信玄に勧めた「きつつきの戦法」を謙信に見破られ武田軍は苦戦。責任を感じ奮戦の後討死。お墓はもともと「勘助塚」にあったが荒廃を憂い、1739年に信州柴阿弥陀堂境内に移転したとのこと。こうやって今も吉池さんの家系がお墓を守ってきてくださっているのですね。
お墓の横には読み応えたっぷりの案内板がありました。案内によれば、信州柴阿弥陀堂は親鸞真筆の「十字名号」を本尊として、室町時代に吉池彦四郎重行によって開基。1561年の第四次川中島戦役の後、武田信玄は陣小屋を寄進・改築し、冑中の守護仏を奉安して両軍の戦死者の霊を祀り、それを聞いた上杉謙信も家臣を遣わして礼拝したそうです。信玄にも謙信にもゆかりのあるお堂なのですね。地域の人々から「お芝様」と親しまれ全国各地から多くの人が参詣に訪れたようです。山本勘助(道鬼)墓の説明には勘助の生涯が書かれていました。要約すると、勘助は三河国(愛知県)出身。26歳より諸国を巡り修業。44歳で武田信玄の軍師。上杉謙信の攻撃に備えるため海津城の構築も手がけた。1561年の川中島の激戦で信玄に勧めた「きつつきの戦法」を謙信に見破られ武田軍は苦戦。責任を感じ奮戦の後討死。お墓はもともと「勘助塚」にあったが荒廃を憂い、1739年に信州柴阿弥陀堂境内に移転したとのこと。こうやって今も吉池さんの家系がお墓を守ってきてくださっているのですね。
『善光寺道各所図絵』には「芝村 阿弥陀堂 山本道鬼碑」の字が読めます。絵の中央に勘助のお墓がありますね。
『善光寺道各所図絵』には「芝村 阿弥陀堂 山本道鬼碑」の字が読めます。絵の中央に勘助のお墓がありますね。
「公墓碑文時計回り」とあります。お墓の周囲に碑文が刻まれていますが、ここから時計回りに読んでいくと読めそうです。
「公墓碑文時計回り」とあります。お墓の周囲に碑文が刻まれていますが、ここから時計回りに読んでいくと読めそうです。
2枚目です。「然れども君のため忠死せり、実に永禄四年(1561年)辛酉秋九月十日(新暦10月28日)也」とあり、勘助が亡くなった日が刻まれています。
2枚目です。「然れども君のため忠死せり、実に永禄四年(1561年)辛酉秋九月十日(新暦10月28日)也」とあり、勘助が亡くなった日が刻まれています。
3枚目です。「山本道鬼入道は三州牛久保之産也、壮年武術を為し霜辛雪苦幾十年既に四十四歳にして武田玄君に仕う、君之を奇として称えて軍師と為し且つ道鬼の号を賜う」とあり、出生から信玄の軍師になるなどプロフィールが書かれています。「戸石の合戦に於いて摩利支天と称するを見る者天下皆人に知らる」とも。戸石や摩利支天など気になる語がありますね!
3枚目です。「山本道鬼入道は三州牛久保之産也、壮年武術を為し霜辛雪苦幾十年既に四十四歳にして武田玄君に仕う、君之を奇として称えて軍師と為し且つ道鬼の号を賜う」とあり、出生から信玄の軍師になるなどプロフィールが書かれています。「戸石の合戦に於いて摩利支天と称するを見る者天下皆人に知らる」とも。戸石や摩利支天など気になる語がありますね!
4枚目です。「石碑を造立し地を柴村に移し永く高名を仰ぐ」とあり、石碑建立や移転のことが書かれています。「嗚呼道鬼 武功忠義 古又之を憶う」と歌も詠まれていますね。
4枚目です。「石碑を造立し地を柴村に移し永く高名を仰ぐ」とあり、石碑建立や移転のことが書かれています。「嗚呼道鬼 武功忠義 古又之を憶う」と歌も詠まれていますね。
碑文をぐるりと一周読めました。
碑文をぐるりと一周読めました。
「2007年大河ドラマ『風林火山』主人公 山本勘助 放映記念」の碑があります。内野聖陽さんの演じた山本勘助を夢中で見ましたね~。
「2007年大河ドラマ『風林火山』主人公 山本勘助 放映記念」の碑があります。内野聖陽さんの演じた山本勘助を夢中で見ましたね~。
勘助のお墓の周りにはリュウキンカ(立金花)がキラキラ輝いていました。ここで安らかに眠れますように。
勘助のお墓の周りにはリュウキンカ(立金花)がキラキラ輝いていました。ここで安らかに眠れますように。
お次は、お墓の説明にもあった信州柴阿弥陀堂へ。お墓から徒歩5分のところにあります。
お次は、お墓の説明にもあった信州柴阿弥陀堂へ。お墓から徒歩5分のところにあります。
信州柴阿弥陀堂の案内板です。1218年(鎌倉時代)に吉池重次が親鸞に帰依し、真筆の「十字名号」を授かった。それを本尊として室町時代に信州にやってきた吉池重行が信州阿弥陀堂を開基したとあります。信玄が第四次川中島戦役後にここに両軍の戦死者の霊を祀り、謙信も家臣を遣わして礼拝したことも書かれていますね。
信州柴阿弥陀堂の案内板です。1218年(鎌倉時代)に吉池重次が親鸞に帰依し、真筆の「十字名号」を授かった。それを本尊として室町時代に信州にやってきた吉池重行が信州阿弥陀堂を開基したとあります。信玄が第四次川中島戦役後にここに両軍の戦死者の霊を祀り、謙信も家臣を遣わして礼拝したことも書かれていますね。
柴阿弥陀堂です。静かなお堂で祈りを捧げました。
柴阿弥陀堂です。静かなお堂で祈りを捧げました。
お次は、近くの大鋒寺へ。
お次は、近くの大寺へ。
入口に「ふしぎな銅鑵子」という松代の民話が紹介されています。九十歳をこえ、この地に隠居した真田信之は、忠臣の鈴木右近と金井池へ網打ちに。ある日、奇妙な物体をつりあげたが、この物体が夜になると台所に出てきて酒をうまそうに飲む。しぼりあげて信之に差し出すと、「酒代は、わしが出すから大切に育てなさい」と言って十二分のお酒を用意したとか。信之が右近をねぎらうための酒を用意しようと仕込んだもので、信之の思いやりを表したおはなしだとか。
入口に「ふしぎな銅鑵子」という松代の民話が紹介されています。九十歳をこえ、この地に隠居した真田信之は、忠臣の鈴木右近と金井池へ網打ちに。ある日、奇妙な物体をつりあげたが、この物体が夜になると台所に出てきて酒をうまそうに飲む。しぼりあげて信之に差し出すと、「酒代は、わしが出すから大切に育てなさい」と言って十二分のお酒を用意したとか。信之が右近をねぎらうための酒を用意しようと仕込んだもので、信之の思いやりを表したおはなしだとか。
真田幸村公記念の碑もありました。
真田幸村公記念の碑もありました。
大鋒寺真田信之霊屋です。案内板があります。
寺真田信之霊屋です。案内板があります。
松代藩初代藩主、真田信之が柴(現在の大鋒寺)に隠居したのは1656年。その時建てられた隠居所の部材を再利用して、1658年、信之の死後に書院の跡地に霊屋として建てられたものだそう。内陣の須弥壇には真田信之、真田幸貫の厨子、阿弥陀三尊があり、厨子の中にはそれぞれ木像が安置されているとのこと。
松代藩初代藩主、真田信之が柴(現在の大寺)に隠居したのは1656年。その時建てられた隠居所の部材を再利用して、1658年、信之の死後に書院の跡地に霊屋として建てられたものだそう。内陣の須弥壇には真田信之、真田幸貫の厨子、阿弥陀三尊があり、厨子の中にはそれぞれ木像が安置されているとのこと。
霊屋です。建築当初は茅葺だったようです。現在は銅板葺です。
霊屋です。建築当初は茅葺だったようです。現在は銅板葺です。
そしてさらに奥には「真田信之の墓」があります。
そしてさらに奥には「真田信之の墓」があります。
「真田信之の墓」の案内板。昌幸の長男として1566年に生まれ、弟に信繁がある。1622年上田城から移って、埴科・更級・水内・高井の四郡十万石を領地、松城藩の基礎を固めた。1656年、息子の信政に家督を譲り、柴村の館(大鋒寺の地)に隠居。二年後の1658年10月17日に93歳で死去と紹介されています。大鋒寺は信之の館をそのまま寺としたとも、館の材を用いて改築したものともいわれるが、信之の法号に寄り大鋒寺としたそうです。
「真田信之の墓」の案内板。昌幸の長男として1566年に生まれ、弟に信繁がある。1622年上田城から移って、埴科・更級・水内・高井の四郡十万石を領地、松城藩の基礎を固めた。1656年、息子の信政に家督を譲り、柴村の館(大寺の地)に隠居。二年後の1658年10月17日に93歳で死去と紹介されています。大寺は信之の館をそのまま寺としたとも、館の材を用いて改築したものともいわれるが、信之の法号に寄り大寺としたそうです。
信之のお墓は塀で守られていて、鳥居をくぐってお参りします。
信之のお墓は塀で守られていて、鳥居をくぐってお参りします。
入口の戸の六文銭。
入口の戸の六文銭。
真田信之のお墓です。五円玉で作ったたくさんの六文銭が供えられていました。お酒もいっぱい並んでいます。
真田信之のお墓です。五円玉で作ったたくさんの六文銭が供えられていました。お酒もいっぱい並んでいます。
そして忠臣の鈴木右近忠重のお墓も同じ敷地内にありました。右近は1658年10月19日、信之が病没した2日後に殉死したと言われています。今もこうしてここに一緒に眠っているのですね。
そして忠臣の鈴木右近忠重のお墓も同じ敷地内にありました。右近は1658年10月19日、信之が病没した2日後に殉死したと言われています。今もこうしてここに一緒に眠っているのですね。
いよいよ広瀬の渡しの対岸へ。川中島古戦場へ向かいます。
いよいよ広瀬の渡しの対岸へ。川中島古戦場へ向かいます。
川中島古戦場 八幡社。「武田・上杉両雄一騎討ちの地 八幡原」とあります。
川中島古戦場 八幡社。「武田・上杉両雄一騎討ちの地 八幡原」とあります。
八幡社の御祭神は譽田別尊(ほんだわけのみこと)と建御名方命(たけみなかたのみこと)。武田信玄が陣を構え、御加護を仰いだ八幡大神の神社。このこの神の御名に因んでこの地は八幡原と呼ばれたようです。
八幡社の御祭神は譽田別尊(ほんだわけのみこと)と建御名方命(たけみなかたのみこと)。武田信玄が陣を構え、御加護を仰いだ八幡大神の神社。このこの神の御名に因んでこの地は八幡原と呼ばれたようです。
「川中島古戦場八幡原」の案内板もありました。川中島の戦いで、武田信玄はここ八幡原に、上杉謙信は妻女山に陣をとり、両軍併せて3万3千余り、9月10日未明の霧深い中で信玄の「鶴翼」の配備と謙信の「車懸」の攻撃で八幡原は大修羅場になったとあります。そこで謙信は愛刀「小豆長刀」を振りかざし武田の本陣に切り込み、不意を突かれた信玄は軍配で謙信の太刀を受けたという「三太刀七太刀」もこの地であるとのことです。信玄41歳、謙信32歳だったそう。この戦での死傷者は7千を数え、当時の土盛りの跡も八幡原に現存。信玄は居城であった海津城から広瀬の渡しを渡ってここ八幡原に入ったのですね。
「川中島古戦場八幡原」の案内板もありました。川中島の戦いで、武田信玄はここ八幡原に、上杉謙信は妻女山に陣をとり、両軍併せて3万3千余り、9月10日未明の霧深い中で信玄の「鶴翼」の配備と謙信の「車懸」の攻撃で八幡原は大修羅場になったとあります。そこで謙信は愛刀「小豆長刀」を振りかざし武田の本陣に切り込み、不意を突かれた信玄は軍配で謙信の太刀を受けたという「三太刀七太刀」もこの地であるとのことです。信玄41歳、謙信32歳だったそう。この戦での死傷者は7千を数え、当時の土盛りの跡も八幡原に現存。信玄は居城であった海津城から広瀬の渡しを渡ってここ八幡原に入ったのですね。
川中島大合戦図がありました。これを見ると信玄の居城である海津城から広瀬の渡しを渡って八幡原に至るルートがよくわかります。
川中島大合戦図がありました。これを見ると信玄の居城である海津城から広瀬の渡しを渡って八幡原に至るルートがよくわかります。
信玄と謙信、一騎討ちの二人がいます!
信玄と謙信、一騎討ちの二人がいます!
「風林火山」の旗の説明もありました。『孫子』の一節「疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し」ですね。
「風林火山」の旗の説明もありました。『孫子』の一節「疾きこと風の如く、徐かなること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如し」ですね。
その横に大きな塚があります。
その横に大きな塚があります。
首塚です。ここは以前は屍塚と呼ばれ、1561年の戦いの後、海津城主高坂弾正が激戦場となったこの辺り一帯の戦死者(6千余人)の遺体を敵味方の別なく手厚く葬った塚の一つだそうです。これを知った上杉謙信が感激して塩不足に悩む武田氏に「われ信玄と戦うもそれは弓矢であり、魚塩にあらず」と塩を送って恩に報いたそうです。このことから「敵に塩を送る」という言葉が生まれたとのこと。
首塚です。ここは以前は屍塚と呼ばれ、1561年の戦いの後、海津城主高坂弾正が激戦場となったこの辺り一帯の戦死者(6千余人)の遺体を敵味方の別なく手厚く葬った塚の一つだそうです。これを知った上杉謙信が感激して塩不足に悩む武田氏に「われ信玄と戦うもそれは弓矢であり、魚塩にあらず」と塩を送って恩に報いたそうです。このことから「敵に塩を送る」という言葉が生まれたとのこと。
いよいよ八幡社にお参りです。こちらは八幡社鞘堂。
いよいよ八幡社にお参りです。こちらは八幡社鞘堂。
御祭神の誉田別尊は源氏一族をはじめ武人の神、弓矢八幡と称して全国各地へ勧請され、開拓の守護神、農耕神としても信仰されるそうです。平安中期に源顕清が信濃の国に流されたとき、武運長久を祈り八幡大神(誉田別尊)をご神木の大ケヤキに包まれる鞘堂内のご神殿に祀られたことから、この一帯を八幡原と名付けたそうです。川中島合戦で破壊された神殿を信玄は高坂弾正に命じて再建させ、その後松代藩真田家が明治維新まで管理運営をされたそう。現在は建御名方命(諏訪大社の祭神)が合祀され、必勝、厄除、交通安全、安産、育児などのご神徳があるそうです。
御祭神の誉田別尊は源氏一族をはじめ武人の神、弓矢八幡と称して全国各地へ勧請され、開拓の守護神、農耕神としても信仰されるそうです。平安中期に源顕清が信濃の国に流されたとき、武運長久を祈り八幡大神(誉田別尊)をご神木の大ケヤキに包まれる鞘堂内のご神殿に祀られたことから、この一帯を八幡原と名付けたそうです。川中島合戦で破壊された神殿を信玄は高坂弾正に命じて再建させ、その後松代藩真田家が明治維新まで管理運営をされたそう。現在は建御名方命(諏訪大社の祭神)が合祀され、必勝、厄除、交通安全、安産、育児などのご神徳があるそうです。
ご神木のケヤキに包まれています。
ご神木のケヤキに包まれています。
八幡社にお参り。必勝祈願とありますね。
八幡社にお参り。必勝祈願とありますね。
左手のこの石は何でしょう?
左手のこの石は何でしょう?
執念の石ってどんな石!?案内によれば、川中島合戦の最中、武田信玄をめがけて上杉謙信が切り込んだとき、武田軍の原大隅が傍らにあった信玄の持槍、青貝の長柄を馬上の謙信めがけて突き出したそうです。槍はそれ、返す槍も外れたけれど、馬を打ったため馬が驚き跳ね上がってその場を去ったため信玄は難を免れることができたとか。謙信を取り逃がし無念の原大隅が、傍にあった石を槍で突き通したため、執念の石と呼ばれているそうです。
執念の石ってどんな石!?案内によれば、川中島合戦の最中、武田信玄をめがけて上杉謙信が切り込んだとき、武田軍の原大隅が傍らにあった信玄の持槍、青貝の長柄を馬上の謙信めがけて突き出したそうです。槍はそれ、返す槍も外れたけれど、馬を打ったため馬が驚き跳ね上がってその場を去ったため信玄は難を免れることができたとか。謙信を取り逃がし無念の原大隅が、傍にあった石を槍で突き通したため、執念の石と呼ばれているそうです。
右手のこの木は何でしょう?
右手のこの木は何でしょう?
逆槐。案内によれば、勘助の「キツツキ戦法」を採用した信玄が1561年9月9日夜、八幡原に陣を構えた際に、この場所に土塁を積みかさね、矢来を組み、盾をめぐらして本陣を置いた。このとき土塁の土どめに槐の杭を根を上にして打ち込んだのが、芽を出し、この巨木に成長したと伝えられているそう。周囲の低い土塁跡は、信玄本陣を示す枡形陣形跡とのこと。
逆槐。案内によれば、勘助の「キツツキ戦法」を採用した信玄が1561年9月9日夜、八幡原に陣を構えた際に、この場所に土塁を積みかさね、矢来を組み、盾をめぐらして本陣を置いた。このとき土塁の土どめに槐の杭を根を上にして打ち込んだのが、芽を出し、この巨木に成長したと伝えられているそう。周囲の低い土塁跡は、信玄本陣を示す枡形陣形跡とのこと。
三太刀七太刀之跡。ここですね、両雄の一騎討ちの地は!
三太刀七太刀之跡。ここですね、両雄の一騎討ちの地は!
三太刀七太刀之跡(みたちななたちのあと)。両雄の一騎討ちの様子が書かれています。信玄めがけて謙信は、馬上より流星一閃、信玄は軍配で受けたが、続く二の太刀で腕を、三の太刀で肩に傷を負った。後に軍配を調べたところ刀の跡が七ヶ所もあったといわれ、この一騎討ちの跡を三太刀七太刀之跡というそうです。
三太刀七太刀之跡(みたちななたちのあと)。両雄の一騎討ちの様子が書かれています。信玄めがけて謙信は、馬上より流星一閃、信玄は軍配で受けたが、続く二の太刀で腕を、三の太刀で肩に傷を負った。後に軍配を調べたところ刀の跡が七ヶ所もあったといわれ、この一騎討ちの跡を三太刀七太刀之跡というそうです。
「川中島の戦い」ゆかりの地 周遊マップ。まだまだゆかりの地がいっぱいあります。一日でどこまで行けるかしら…。そろそろ次の目的地へ行きましょう。
「川中島の戦い」ゆかりの地 周遊マップ。まだまだゆかりの地がいっぱいあります。一日でどこまで行けるかしら…。そろそろ次の目的地へ行きましょう。
お次はこちら。諸角豊後守之墓です。
お次はこちら。諸角豊後守之墓です。
諸角豊後守の生涯が書かれています。虎定は信玄の曽祖父信昌の六男。武田家の重臣として信虎・信玄の二代にわたって仕えた旗本五十騎持ちの侍大将。第4回川中島の戦いに本陣右翼を担い81歳の高齢で出陣。「きつつき戦法」を見破られ信玄の危急を救わんと、副将武田信繁は上杉軍に切り込み、壮烈な討死。虎定は、信繁の討死の報せに「もはや我が武運の尽きる時、我もお供つかまつらん」と主君信繁の後を追うように僅かな手勢で敵陣へ突入。奮戦の末壮烈な最後を遂げたという。大河ドラマ『風林火山』では加藤武さんが演じましたね。
諸角豊後守の生涯が書かれています。虎定は信玄の曽祖父信昌の六男。武田家の重臣として信虎・信玄の二代にわたって仕えた旗本五十騎持ちの侍大将。第4回川中島の戦いに本陣右翼を担い81歳の高齢で出陣。「きつつき戦法」を見破られ信玄の危急を救わんと、副将武田信繁は上杉軍に切り込み、壮烈な討死。虎定は、信繁の討死の報せに「もはや我が武運の尽きる時、我もお供つかまつらん」と主君信繁の後を追うように僅かな手勢で敵陣へ突入。奮戦の末壮烈な最後を遂げたという。大河ドラマ『風林火山』では加藤武さんが演じましたね。
諸角豊後守のお墓です。新しいお花も供えられており、とても大切にされているのが伝わります。
諸角豊後守のお墓です。新しいお花も供えられており、とても大切にされているのが伝わります。
お次はこちら「胴合橋」。山本勘助翁鎮魂碑と刻まれています。
お次はこちら「胴合橋」。山本勘助翁鎮魂碑と刻まれています。
1561年9月10日、川中島合戦の折、山本勘助が東福寺泥真木明神(勘助宮)付近で戦死した後、その家来が敵の手から首を奪い取り胴と首を合わせたところだそうです。朝霧の中から突如姿を現わした越後軍1万2千の大軍に「甲越合戦すること十五年 その間大小の合戦十余回あったが敵の作戦を見損じたことは一度もなかった。しかし今日は、川霧のために大軍が迫るのをしらなかったのは、わが武運の尽きる時」と越後軍に突入、家臣もろとも首を落とされたという勘助の最後が記されています。
1561年9月10日、川中島合戦の折、山本勘助が東福寺泥真木明神(勘助宮)付近で戦死した後、その家来が敵の手から首を奪い取り胴と首を合わせたところだそうです。朝霧の中から突如姿を現わした越後軍1万2千の大軍に「甲越合戦すること十五年 その間大小の合戦十余回あったが敵の作戦を見損じたことは一度もなかった。しかし今日は、川霧のために大軍が迫るのをしらなかったのは、わが武運の尽きる時」と越後軍に突入、家臣もろとも首を落とされたという勘助の最後が記されています。
山本勘助鎮魂碑の由来。これによると「山勘は、勘に頼って万一の成功をねらったり、計略にかけて相手を欺くこと。または、その人。武田信玄に仕えた軍略家山本勘助の名称からでた熟語」のような記述もありました。テストの山勘は勘助から来ていたのか。また家来がこの橋の辺りで奪い返した勘助の首を洗っていると、見覚えのある主君の鎧を着した胴体が流れつき、首と胴体をつなぎ合わせるとぴったり一致したとか。家来たちは亡骸を橋のたもとに手厚く葬り、この橋を胴合橋と呼んだという話が記されていました。
山本勘助鎮魂碑の由来。これによると「山勘は、勘に頼って万一の成功をねらったり、計略にかけて相手を欺くこと。または、その人。武田信玄に仕えた軍略家山本勘助の名称からでた熟語」のような記述もありました。テストの山勘は勘助から来ていたのか。また家来がこの橋の辺りで奪い返した勘助の首を洗っていると、見覚えのある主君の鎧を着した胴体が流れつき、首と胴体をつなぎ合わせるとぴったり一致したとか。家来たちは亡骸を橋のたもとに手厚く葬り、この橋を胴合橋と呼んだという話が記されていました。
その「胴合橋」を渡って、向こうの建物に行ってみましょう。
その「胴合橋」を渡って、向こうの建物に行ってみましょう。
OYAKI FARMです。なんだかお腹がすいてきました。
OYAKI FARMです。なんだかお腹がすいてきました。
OYAKI MENU。おいしそう!
OYAKI MENU。おいしそう!
テラスで景色を楽しみながらランチタイム。
テラスで景色を楽しみながらランチタイム。
おやきもおいしかったし、オヤキジドーナツも絶品でした。
おやきもおいしかったし、オヤキジドーナツも絶品でした。
正面の橋の向こうに皆神山が見えました。
正面の橋の向こうに皆神山が見えました。
皆神山の左手には尼巌山もきれいに見えました。尼巌山の尼巌城といえば、信玄が攻略した山城の一つですね。
皆神山の左手には尼巌山もきれいに見えました。尼巌山の尼巌城といえば、信玄が攻略した山城の一つですね。
お次は、南長野運動公園内にある「勘助宮跡」です。
お次は、南長野運動公園内にある「勘助宮跡」です。
勘助宮跡は、この地より北東100mの位置にあったそう。もともとは北小森集落の氏神で、建御名方神を祀る諏訪社でした。川中島の激戦で「きつつきの戦法」が失敗して武田軍が苦戦に陥ったことに責任を感じた勘助は、この地で討死したと言われています。その後、土地の者はこの諏訪社を勘助宮と呼ぶようになったそうです。勘助宮跡はその後数回の移設を経て、現在の南長野運動公園には1995年に移設されました。
勘助宮跡は、この地より北東100mの位置にあったそう。もともとは北小森集落の氏神で、建御名方神を祀る諏訪社でした。川中島の激戦で「きつつきの戦法」が失敗して武田軍が苦戦に陥ったことに責任を感じた勘助は、この地で討死したと言われています。その後、土地の者はこの諏訪社を勘助宮と呼ぶようになったそうです。勘助宮跡はその後数回の移設を経て、現在の南長野運動公園には1995年に移設されました。
お次は枝垂れ桜が満開の典厩寺へ。
お次は枝垂れ桜が満開の典厩寺へ。
とっても大きな閻魔様がいました!
とっても大きな閻魔様がいました!
この閻魔堂は松代藩主八代真田幸貫公によって川中島合戦戦死者6000余名の供養のために建立されたんですね。しかもこの閻魔様は日本一大きい朱塗閻魔大王様のようです!
この閻魔堂は松代藩主八代真田幸貫公によって川中島合戦戦死者6000余名の供養のために建立されたんですね。しかもこの閻魔様は日本一大きい朱塗閻魔大王様のようです!
霧の川中島合戦。
霧の川中島合戦。
謙信がいます。
謙信がいます。
信玄もいました。
信玄もいました。
六文銭の旗を見つけました。
六文銭の旗を見つけました。
武田のエリート、むかで衆も発見!
武田のエリート、むかで衆も発見!
典厩信繁公の首きよめ井戸。ここで討死した信繁の首を敵から奪い返して清めたそうです。
典厩信繁公の首きよめ井戸。ここで討死した信繁の首を敵から奪い返して清めたそうです。
お寺の前には上杉と武田の旗が飾られていました。
お寺の前には上杉と武田の旗が飾られていました。
武田・上杉両雄一騎打ちの碑の案内板です。
武田・上杉両雄一騎打ちの碑の案内板です。
古戦場の一騎打ちの銅像はこの石碑が原画となっているんですね。
古戦場の一騎打ちの銅像はこの石碑が原画となっているんですね。
信繁の壮烈な死については、先ほどの諸角豊後守のお墓の案内でも記されていました。案内によると、武田信繁は1525年父信虎と母大井夫人のあいだに生まれた次男。信虎は信繁に家督を譲ろうとしていたが、1541年信玄により追放されると、信繁は武田家副将として兄を補佐。第4回川中島合戦で37歳の生涯を閉じました。遺骸は鶴巣寺に埋葬され典厩塚と呼ばれました。この鶴巣寺が真田信之の命で典厩寺と改められたと記されています。
信繁の壮烈な死については、先ほどの諸角豊後守のお墓の案内でも記されていました。案内によると、武田信繁は1525年父信虎と母大井夫人のあいだに生まれた次男。信虎は信繁に家督を譲ろうとしていたが、1541年信玄により追放されると、信繁は武田家副将として兄を補佐。第4回川中島合戦で37歳の生涯を閉じました。遺骸は鶴巣寺に埋葬され典厩塚と呼ばれました。この鶴巣寺が真田信之の命で典厩寺と改められたと記されています。
武田信繁のお墓です。大河ドラマ『風林火山』では嘉島典俊さんが演じました。「典」の字が入っていますね~。ちなみに一番左の石積みのお墓は真田信繁のお墓だそうです。信繁の名は、父昌幸が尊敬していた信玄の弟の信繁から付けたのでしょうか。二人の信繁に手を合わせました。
武田信繁のお墓です。大河ドラマ『風林火山』では嘉島典俊さんが演じました。「典」の字が入っていますね~。ちなみに一番左の石積みのお墓は真田信繁のお墓だそうです。信繁の名は、父昌幸が尊敬していた信玄の弟の信繁から付けたのでしょうか。二人の信繁に手を合わせました。
武田・上杉の戦いにまつわる方位盤。手前から時計回りに妻女山→茶臼山→〇戦地→海津城址。写真はありませんが、宝物館は本当にお宝の宝庫だったので、必見です!
武田・上杉の戦いにまつわる方位盤。手前から時計回りに妻女山→茶臼山→〇戦地→海津城址。写真はありませんが、宝物館は本当にお宝の宝庫だったので、必見です!
典厩寺は桜が素晴らしい時期でした。記念撮影して次の目的地へ。
典厩寺は桜が素晴らしい時期でした。記念撮影して次の目的地へ。
お次は先ほどの方位盤にも出てきた海津城へ。途中で大きな虹に出会えました。
お次は先ほどの方位盤にも出てきた海津城へ。途中で大きな虹に出会えました。
松代城(海津城)跡に到着。松代城は江戸時代には松代藩主真田家の居城。そのはじまりは、戦国時代に築城された海津城。戦国時代は軍事的にも政治的にも重要な拠点。1622年に真田信之が上田城から松代城に移り藩政の拠点としたとあります。
松代城(海津城)跡に到着。松代城は江戸時代には松代藩主真田家の居城。そのはじまりは、戦国時代に築城された海津城。戦国時代は軍事的にも政治的にも重要な拠点。1622年に真田信之が上田城から松代城に移り藩政の拠点としたとあります。
マップをチェックしていざ入城。
マップをチェックしていざ入城。
太鼓門前橋を渡って中に入ります。太鼓門の名は、時を告げる太鼓を備えていたことが由来のようです。
太鼓門前橋を渡って中に入ります。太鼓門の名は、時を告げる太鼓を備えていたことが由来のようです。
場内にある海津城址之碑です。今日は勘助のお墓に始まり、信玄が勘助に命じて築城した海津城までこられて感無量です。
場内にある海津城址之碑です。今日は勘助のお墓に始まり、信玄が勘助に命じて築城した海津城までこられて感無量です。
海津城内からも尼巌山がよく見えます。尼巌城と海津城。よい位置関係ですね。
海津城内からも尼巌山がよく見えます。尼巌城と海津城。よい位置関係ですね。
本丸北西の戌亥隅櫓の石垣は城内でも古い近世初頭のもの。角石、積み石、詰め石など大小さまざまな自然石を巧みに積み上げてあり、特徴的なものだそうです。
本丸北西の戌亥隅櫓の石垣は城内でも古い近世初頭のもの。角石、積み石、詰め石など大小さまざまな自然石を巧みに積み上げてあり、特徴的なものだそうです。
櫓に登ると尼巌山の上に虹が見えました。素晴らしい!
櫓に登ると尼巌山の上に虹が見えました。素晴らしい!
お城を出て近くの真田邸に行きましたが、受付終了にてまた今度。
お城を出て近くの真田邸に行きましたが、受付終了にてまた今度。
真田信之公にまた来る約束をして本日の武田・真田めぐりを終了としました。
真田信之公にまた来る約束をして本日の武田・真田めぐりを終了としました。
歴史あるきの後の楽しみは松代荘の黄金の湯。鉄分たっぷりの真っ赤なお湯にゆっくりとつかりました。
歴史あるきの後の楽しみは松代荘の黄金の湯。鉄分たっぷりの真っ赤なお湯にゆっくりとつかりました。
旅の思い出は典厩寺で購入した「上杉武田一騎打の手拭」です。勘助のお墓に始まり、勘助の築城した海津城まで、信之のお墓に始まり信之の松代城まで。武田・真田めぐりを存分に楽しんだ歴史あるきに感謝。
旅の思い出は典厩寺で購入した「上杉武田一騎打の手拭」です。勘助のお墓に始まり、勘助の築城した海津城まで、信之のお墓に始まり信之の松代城まで。武田・真田めぐりを存分に楽しんだ歴史あるきに感謝。

 2024年9月9日の武田めぐり、武田神社はコチラ

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